演出 立山ひろみさんインタビュー その1《演劇に出会うまで》
2017-09-01
今回、演出をしていただく立山ひろみさんは、宮崎県佐土原町出身。
大学入学時に上京し、卒業後は東京を拠点とし活動をされています。
2015年には、宮崎県立芸術劇場の演劇ディレクターに就任され、東京と宮崎を行き来しながら忙しい日々を過ごされています。
立山ひろみさんがどのようにして現在にいたったのか、幼小時代からのお話を伺いました。
当初、一回を予定していましたが、興味深いお話が満載だったため、二回に分けてお届けします。
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― 本日は、ひろみさんの生い立ちから、現在にいたるまでのお話をうかがいたいと思います。よろしくお願いします。
では、まずお聞きしますが、小さい頃は何になりたかったですか。
立山/小さい頃は、幼稚園の時三年間ずっと、「お医者さん」って書いていました。きっと他の子たちは、お嫁さんとかお花屋さんとか、ファンシーなものを選ぶんだけど(笑)、わたしは身体もあまり強くなかったので、病院に行く機会が多かったんです。病院に行く時っていうのは基本つらい状態で行くので、それを治してくれる人、助けてくれる人、自分ではどうしようもできないことを専門的に何かして楽にしてくれるということに、希望というか、誰かをこういう風に快適にできるっていうのはすごい仕事だな、と思ったんです。命を司る、そういうことに一番近い人たちだったから、誰かのためになる仕事、という意味も含めて尊敬していましたね。
― なるほど。小さい頃の原点はそこにあって、いまは舞台芸術、アートの世界に進まれたわけですが、これまで折に触れいろいろとお話を伺っていると、やはりご両親の影響というのが大きかったのかな、と思いますが。
立山/そうですね。小学校に入ったくらいからは、お医者さんというものにもあまり固執しなくなりました。
両親が画を描く人で、陶の作品作りもしていたので、家には粘土をこねる機械とか、窯がたくさんありました。その頃は内装の仕事もしていたので、その資材とか、事務所もあって、自分の家はほかの家とはずいぶん違う特殊な家なんだなと思っていました。だから逆にサラリーマンに憧れて、サラリーをもらうということに憧れていたので、小学校低学年の頃には、キャリアウーマンになりたい、って言ってましたね。
父は、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)で、日本画を専攻していて、母も東京藝術大学で油絵を専攻していました。父は大学を出た後に、京都市立芸術大学での講師を経て地元の宮崎に戻って、美術工房アート・アマネを設立します。アマネは、父の名前、立山周平の“周”の字の訓読み、「あまね」にちなんでいます。一部の限られた人たちだけはなく、普段暮らしている生活空間にアートが普通にあるような環境づくりをしたいと考えて、陶を使った作品をたくさん作っています。地元の街なか、たとえばアーケードの柱とか、道路の十字路のところにある大理石の時計とか、公園や学校のモニュメントなんかも手がけています。
― キャリアウーマンに憧れていたひろみさんが、舞台の世界に進むことになった具体的なきっかけはなんですか。
立山/そうなんですよね、とにかく当時は食べていけるかわからないみたいな仕事に就く気はまったくなくって、バリバリ働いてちゃんと稼いで、30歳すぎたら親に仕送りするもんだと思っていました(笑)。それが中学時代、たまたまNHKでやっていた、天海祐希さんがレット・バトラーを演じた宝塚の「風と共に去りぬ」を見たんです。宝塚自体を知らなかったわけじゃないんですが、それを見た時に、わー、なんかかっこいい、ってすごく思ったんです。それで母に、今日見た宝塚がすごくおもしろかったって話をしたら、東京に住んでいる母の姉にすぐ連絡をして、「ひろみちゃんが宝塚に興味あるみたいだから」と言って、チケットを手配してくれました。伯母は鳳蘭の時代からの宝塚ファンでチケットが手に入りやすかったんです。それと同じ時期に、たまたま親戚一同が関西で集まることがあって、そうしたら母が「ひろみちゃんせっかくだから、兵庫の宝塚大劇場も行く?」て言ってくれて。結局、兵庫の宝塚大劇場で見て、その足で東京の宝塚劇場でも、違うバージョンの「風と共に去りぬ」を見ました。今思うと、そうやってこどもが興味を持ったものに、ポンとアクセスさせてくれた母はすごかったなと思います。両親とも自分たちが好きなことをやってきたから、こどもが何かに興味を持つということを大事にしてくれたんだと思います。
それまではとくに熱中できるものがなかった自分が、この時の経験で演劇に出会って、変わりました。大きな劇場で、すごい数の観客と出演者がいて、客席から見ていて、あちら側にいきたいなと思ったんです。もちろん、歌も踊りもやっていなかったから、何が向いているのかわからないので、すぐに何かをやるってことじゃなくて、とにかくたくさん舞台を見て勉強したいと思いました。この熱はなんだろう? みたいな。ここ(胸の中)に帯びている熱というのはこれまで感じたことがなかったから、このことは追い求めていけるんじゃないかな、と思ったんです。ほぼ初恋みたいな感じ。もともと人のこともあんまり好きになったりするタイプじゃなくって、あんまり“生”にも執着がないから(笑)、でもなんか自分の中にこういうことが起きたこのことがすごくおもしろくって、熱中しました。
― 高校時代は、どんなふうでしたか。
立山/中学時代に宝塚に出会って、中3で演劇のほうに進もうと決めて、高校に入学したんですが、わたしの入った県立宮崎北高校には演劇部が無くって。高校から演劇の勉強ができると思っていたので、それならと思って地元の劇団に電話をかけたら高校生はダメですって言われました。そうしたらもうとにかく独学でできることをやろうと思って、雑誌や本をたくさん読みました。「テアトロ」とか「悲劇喜劇」とか、「演劇ぶっく」とか、鈴木忠志さんや平田オリザさんの本とか。あと、宮崎に来る演劇もなるべく見るようにしていました。
高校では演劇の勉強ができないんだな、とわかった時点で、これは東京に行くしかないな、と思いました。親が納得いくようにと、国公立の大学を目指すことにして、どの大学がいいかというのを考えました。いろいろ考えたあげく、試験が3教科で好きな勉強だけやればいいから、そう考えると東京藝術大学が一番あっているなと思って高校2年生の時から、東京の予備校に通わせてもらいました。
美学書の中のA4サイズ1枚くらいの英文を和訳しなさいとか、そういう勉強をしました。美学の専門用語がわかっていないといけないし、そもそもすごいスピードで和訳しなきゃいけないとか、とにかく勉強は超マニアックでした。でもこの頃の勉強というのは確実にいまの自分にとってためになることだったなと思っています。
夏に予備校に来るタイミングで、「ぴあ」とかを見て、購買部の横の公衆電話からチケットをとって、蜷川さん(蜷川幸雄)とか、ケラさん(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)とか、松尾スズキさんとかの舞台を見まくっていました。中学生で演劇の道に進みたいと思ったんですが、演劇ってどう調べても、どこどこに行けばなになにになれるっていうのがなくって。本で演出家のプロフィールを見て、何をして演出家になったのかというようなことを調べたら、「大学で出会った人たちと一緒に」、とかいろいろあったのですが、結局日本では、まだシステムが構築されていないから、その人たちが歩いたところにしか道ができないんだな、って思いました。それで、結局何をどうしたらいいかわからないから、まず自分のできる努力だけはしようと思って、高校の時はとにかくたくさん作品を観るっていうことと、独学で勉強できることはやっていました。アリストテレスの「詩学」とかも高校の時から読んでて、バイブルのひとつです(笑)。
― 宝塚で舞台に出会ったわけですが、ジャンル問わずいろいろなものを見ていたんですね。
立山/親の影響だと思っているのですが、見ることが一番勉強になると思っていました。コンサートとかモダン・ダンスとか、クラシックとか昔からよく連れて行ってもらいました。美術館とかもそうです。演劇の道を勧められたことは1㎜もなかったのですが、やっぱりこういう環境で育ったことは大きかったと思います。
入り口としては確かに宝塚だったんだけど、当時、ケラさんとか松尾さんがのりにのっていたころだったから、そういう時代の空気みたいなのは浴びておかないといけないなっていう思いは、高校生ながらにあって。当時見ていた芝居のセレクトは、いま考えてもちゃんとしているな(笑)って思います。宮崎では、東京みたいにたくさんは舞台を見られないので飢えているから、テレビでやっているのをラジカセで録って、挿入歌とかひとりで歌ったりもしていました。乾いているっていうか、とにかくなんでも吸収したい、なるべく幅があるものを見たいっていう思いがありましたね。
写真はすべて、オペラ『スマイル─いつの日か、ひまわりのように』稽古場より 撮影:姫田蘭
(聞き手・田上ナナ子/こんにゃく座制作)