演出 立山ひろみさんインタビュー その2《大学時代、そして演出家として》
2017-09-08

演出 立山ひろみさんインタビュー その1《演劇に出会うまで》から続き
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― それで受験をして、上京することになるわけですね。

立山/はい。国公立は併願ができるから、同じ勉強で東京学芸大学が受けられると、ある時に知りました。そうしたら学芸大のなかに、芸術学演劇という科があるのがわかって、予備校の先生に聞いてみたら、学芸大の演劇学は一年に一人しかとらないし、対策のしようもないので、このまま芸術学の勉強をしておいて、学芸大に行きたいんだったら、入ってから勉強すればいいんじゃない、て言われました。
そうしたら学芸大は、試験の当日に、芸術学のものと、演劇のものと、試験問題を両方渡してくれて、その場で選ばせてくれたんです。その時、芸術学の勉強をずっとしてきたけど、自分は演劇に進みたいんだから、演劇のほうが自分の言葉で答えられるってその場で判断して、演劇を受けました。直感で、これは演劇のほうが可能性があるなって、思ったんです。結果合格しましたが、本当に熱意で受かったっていう感じです(笑)。

― そして、大学で佐藤信さんと出会ったのですね。

立山/運良く大学に合格して、最初の教授は小林志郎先生でしたが、小林先生はその当時もう現場ではやってらっしゃいませんでした。でも小林先生のお陰で、国立劇場の技術の方たちも学芸大生に目をかけてくれていて、よく歌舞伎とかを無料で見せてもらいました。ただ、外部というか、現場につながる回路がなかなかなくって、どうやって現場に出ればいいかな、ということは常に考えていました。
ゼミは人数がとても少ないので先輩からいろいろ教えてもらいました。公演をする時には役者さんは外部のサークルとかから出演してもらっていました。在学中に一回は演出をさせてもらえることになっていて、わたしは三年生の時だったのですが、丁度その年は、美術科から演劇が無くなって、表現コミュニケーションという学科に変わりますという年でした。でも、わたしたちが美術科として入学した意義みたいなものが絶対あるはずだからと思って、美術科総動員で、彫刻科の人に仮面を作ってもらったりして、ギリシャ悲劇の「オイディプス」を神楽(かぐら)でやる、ということをやりました。それは、西洋の古典と東洋の古典の、無いものとあるものの補い合いというような感じで、型(かた)は残っていないけれど構造が残っているギリシャ悲劇と、型は残っているけれど物語が残っていない神楽、それをお互いに融合させる、ということです。それをやった年というのが、信さん(佐藤信さん。黒テント演出家。こんにゃく座では『三人姉妹』の演出をてがける)が教授に就任した年で、信さんの授業はまだそんなに受けていない時に、いきなりゼミのこの公演を見てもらったんです。その頃の信さんは、世田谷パブリックシアターの芸術監督、黒テントの演出家、そして大学で教えることの三足のわらじを履いている時期で、わたしにとっては、今第一線で活躍している人に出逢えるということはとてもラッキーだと思いました。それで公演を見た信さんに、「君は演出が向いている」と言われたんです。これはゆくゆくとても大きなことでした。
まだこの頃は、演出はすごく楽しいけれど、世界観とかは全部背負わないといけないし、役者は役者でおもしろいんじゃないかと思っていました。わたしの公演のあとに、信さんがどんどん演出をしてくれて、わたしも近代能楽集の「班女」の花子さんの役をやったりしたのですが、とにかくかなりしごかれました。でも、この頃の経験から、質的にわたしは役者じゃないんだな、ということを大学時代に思い知らされたし、やっぱり演出のほうがおもしろいということも同時に思ったんだと思います。演出の大変な部分の責任みたいなものを感じながらも、でもきっとそこが自分の性質的には絶対おもしろがれるという、あきらめにも似た覚悟っていうか(笑)、いや、わかっていたけど、きっとその目が、自分の目としてはその視点が一番あっているんだろうなって思ったんです。
大学を卒業したら、もともと一人で始めようと思っていたけれど、その頃黒テントが丁度世代交代するおもしろい時期だから、いいんじゃない、というようなことを言われて、いろいろと勉強させてもらえるんだったらと思って、黒テントに入ることにしたんです。


― 黒テントに入ってみて、どうでしたか。

立山/大学を卒業して黒テントに入る時に信さんから、「演出家になるなら、舞台美術か舞台照明を勉強しないと生かされも殺されもする」と言われて、照明家の齋藤茂男さんのところに一年間修行に行かせてもらいました。茂男さんには、立山は照明家になるわけじゃないから、プランナーと演出家のやりとりを聞いておけばいいって言われていたので、いつも茂男さんの隣にいて、アシスタントをしていました。本当に何人もの演出家の現場、大きなところから小さなところまでありとあらゆる現場を経験させてもらいました。
黒テントのいいところは、演出家が何人もいるというところです。わたしは演出がやりたいわけだから、一強のところに入ってもしょうがないわけで、それに比べて黒テントだと演出家が何人もいるから、チャンスがあるわけです。でもそういったことを始める前に、茂男さんに付いてたくさんの現場を見て、たくさんの世界を見ることができたことはすごく良かったです。

― それは、誰もが経験できることではないですもんね。

立山/そうなんです。わたしは本当に、運と縁があるっていうか。
黒テントに入ってからも、いろいろと生意気なことも言ってましたね。その頃演目の決定がトップダウンだったから、企画書を出せないなら意味がないので辞めますと言ったり、外で仕事ができないこともおかしいんじゃないですか、って言ったり。わたしが入る前は、旗揚げメンバーが元気にやっていて、後から入ったメンバーは演出をさせてもらう機会がなかなかなかったんです。でもわたしが入ったタイミングはとても良くって、信さんにしても、元さん(山元清多さん。黒テント演出家。こんにゃく座では『金色夜叉』『変身』『にごりえ』などの演出、『ロミオとジュリエット・瓦礫のなかの』『ピノッキオ』などの台本を手がける)にしても、晴さん(齋藤晴彦さん。俳優。黒テント設立メンバー。こんにゃく座とは、1984年1987年の『フィガロの結婚 或いは狂おしき一日』で共演)にしても、そろそろ生意気言う存在が欲しいなって思う、そんなタイミングだったんだと思います。黒テントは三人にとってすごく大事なんだけど、このままずっと行ってもおもしろくないなって思っていたんじゃないかなって思います。晴さんも、すごい年が離れているんだから、ぜんぜん違うことが出てきて当たり前だって、健全なことを言ってましたし。だからわたしはすごく三人に対して信頼感があったし、それがたぶん三人のアシスタントやっていたころ、伝わったんじゃないかなと思うんです。そんなこんなで、自分の企画を出せることになった時に、ボリス・ヴィアンの「帝国の建設者」を出しました。そうしたらその企画が通って、本公演ではなくワークイン・プログレスという形でしたけど、ほぼ本公演規模で公演をさせてもらうことができました。そして、その同じくらいの時期に、こんにゃく座ともお仕事をさせてもらうようになったわけです。

― 初めて見たこんにゃく座の作品は覚えていますか?

立山/学生の頃に、信さんの演出したオペラ『三人姉妹』(林光作曲・2001年)を見ています。でもそれを見た時に、こんにゃく座初めてじゃないって思ったから、たぶん、その前にも何か見ていると思うんですよね。何だったかな…。


― 2005年のオペラ『好色一代男』で、元さんの演出助手として、こんにゃく座はひろみさんと初めてご一緒することになります。それ以降、いくつものオペラを一緒につくってきたひろみさんですが、今回オペラ『スマイル─いつの日か、ひまわりのように』を演出していただくことになりました。この公演の稽古場で、日々考えていること、感じていることがありますか。

立山/そうですね、鄭義信さんという人が劇作家としても演出家としてもすごく素晴らしくて、そんな日本を代表する方の作品をやれるっていうのはすごく光栄、幸せっていうプレッシャー(笑)すごくあります。実はいままで、演出ということではプレッシャーって感じたことがなくって、初めてのことです。
『スマイル』は素晴らしい作品で、鄭さんが一番最初に書いたオペラだから、鄭さんのその後に続く作品群のなかの結晶みたいなものが詰まっていると感じています。人が求める救いみたいな意味で“お笑い”が描かれているっていうことが、その後の鄭さんの作品を彷彿とさせるというか。だから原石のようだと思っていて、その原石をわたしたちは丁寧に磨いて、こんなに素晴らしい作品が1997年に生まれていたのだということを改めてみなさんに知ってもらいたいなと思います。
戦争という大きなテーマが入っています。『ガリバー』にも原民喜の「夏の花」が挿入されていますし、『おぐりとてるて』も中世で戦の中生きている人たちを描いているので、たまたまですがわたしが演出をするこんにゃく座作品は、戦争が入っています。戦争についてはそのつどたくさん勉強をしてきて、今回ももちろんいっぱい勉強したんですけど、もっと生々しく、もっと実存として存在する戦争みたいな感じがつきつけられるっていうふうに思います。こどもたちのシーンとか、挺身隊のシーンとか、生身の身体をともなってそこにあるっていうことでいうと、あらためて今、戦争のことを考えてみる。そのことがすごくこの時代にあっていると思います。
そしてこれも小さい頃からわかっていたことだけど、戦争を体験された方たちが亡くなっていくという現実があります。いま戦後72年経って、自分の言葉としてそれを語ることのできる方たちが少なくなっていくから、その言葉をなるべくわたしたちが知らなければいけないと思って、稽古場で出演者と一緒にドキュメンタリーを見たり、資料館に行ったりしました。いま正に失われていく実感みたいなものを、今生きている人間がつないでいかないといけないから、そのことを今回すごく思って稽古を重ねています。
なにより、鄭さんの作品は、人間というものを愛しているって感じが強いので、その人間に絶望しないっていう温度をちゃんと出せるようにと思います。どういう状況下でもイキイキと生きる、繊細でたくましい人間と世界が描けて、本番でお客さんと最終的につくりあげられたらいいなと思って、稽古しています。


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8月25日、稽古も中盤を過ぎた頃にお話を伺いました。

写真はすべて、オペラ『スマイル─いつの日か、ひまわりのように』稽古場より 撮影:姫田蘭
(聞き手・田上ナナ子/こんにゃく座制作)