安房直子という人〜後編
2017-03-06

西東京市はかつての保谷(ほうや)市と田無(たなし)市が2001年に合併し、うまれた町だ。『まほうをかけられた舌』原作者の安房直子さんは旧保谷市に在住していた。訪れた西東京市中央図書館「資料・行政資料室」の司書の方によると、安房さんは生前、今は閉館してしまった「下保谷図書館」によく通っていたそうだ。作品は自宅のダイニングテーブルでよく書いていたようだから、図書館には調べものに訪れたのか、またはちょっと気分を変えて、今日は図書館で書きものをしようかという日もあったかもしれない。
1968年に結婚し、1974年に子供が産まれてからも、家事や育児をこなしながら書くことへの意欲を失わなかった安房直子(以下敬称略)が童話を書く時間は、朝に夫や子供を見送った後から午後の3時前後までだったとある。日本女子大学児童学科児童文学研究会(日月会)より2011年に出された「日月」第八号は、安房直子特集号でもあるのだが、「海賊」誌同人であり、安房とも親しかった生沢あゆむさんの文章の中に、「家事はそんなに大変じゃないわよ。台所をしながらでも、お話は考えられるじゃない。」という安房の生前の言葉がある。また、「私は食べ物のことを書くのがすき」(「童話とわたし」日本女子大学 国語国文学会だより3号・1990年)という安房自身の言葉も資料の なかに見つけることができる。食べものを作る(あるいは食べる)処とものがたりを作る処とが、すぐとなりどうしであったことは、安房作品の一つの特徴である「味覚」の表現に直接的に結びついているのかもしれない。
さて後編の書き出しから、やや脱線気味になってしまった。前編の続きに話を戻す。

資料室の机の上にふたつの段ボール箱がある。安房さんの資料だと言って司書の方が出してくれた箱を開けてみると、ひとつには丁寧にファイリングされたカラフルなファイルが30冊ほど入っていた。「安房直子氏単行本未収録作品ファイル」と背表紙にある。ひとつひとつ取り出したい気持ちを抑え、もうひとつの箱も開けてみる。こちらは冊子で、背表紙に「海賊」とある。やはり30冊ほどが並んでいる。その創刊号を手にとってみた。
巻末の奥付には1966年10月とあり、安房直子23歳の年にあたる。冒頭には、安房が師事していた山室静氏による「発刊によせる」という文章。その表現にユーモアがあり、また安房たち同人の意志もよく表されているので、少し次に引用してみる。
「日本女子大の大学院にいる人たちを中心に、その周辺にいる親しい友達をも誘って、童話の同人誌を出すことになった。児童文学研究の文章ものせないわけではないが、これは主として実作修練の場と考えて、めいめいで思いきり想像力をはばたかせ、人生観察の精微にして、童話という不思議な世界の秘密に、自分で参入してみようということで、雑誌の名もいさましく「海賊」ときめたという。
私が多少ふれているところから推測するに彼女たちはみなあまりにも幸福な小市民的世界の住人で、「海賊」という言葉の喚起するイメージとは、かなり食いちがう気がする。その点に少しく不安があった。しかし、あえてそういう題名を選んだところに、自分に課せられている枠を踏み破って出たい彼女たちの願いがこめられているのだと思い直して、却って大きな期待を寄せることになった。どうかこの不逞な名前を裏切ることなく、大いにあばれてほしいものである。(以下略)」
そして、この冒頭の文章の次に、先頭をきって安房の『あじさい』という作品がまず載せられている。ちなみにこの『あじさい』は、後に『青い花』へと改作され、『まほうをかけられた舌』とともに安房直子最初の書籍として、1971年に岩崎書店より出版されることになる。

順番に何冊か、ざっと眺めながら手にとっていくなかで第17号(1970年7月)に手がとまった。表紙をめくると、「安房直子 特集号―日本児童文学者協会新人賞受賞」の文字。『さん しょっ子』という作で賞を受けた直後の号である。そこに『まほうをかけられた舌』は収められていた。1971年の出版が初出と勝手に信じていたのだが、実は「海賊」で先に発表されていたのだ。ほかに『ちいさいやさしい右手』、『北風のわすれたハンカチ』と、合わせて3作が掲載されているが、後者のふたつは3、4年前に既に書かれていた作、『まほうをかけられた舌』だけが新しい作品である。
この特別な号に載せるにふさわしい新作として、安房は『まほう〜』をやはり特別な思いで書いたのだろうか。その創作の原点は、ある日、安房が地下街を歩いていた時、まぶしくきらびやかな店々に気をとられ、方角に迷ってしまい、とりあえず近くの階段をのぼって地上に出たときに自分の思いもかけなかった場所に出てしまった、この意外さに着想を得たようだ。そのイメージをふくらませて筆を進めたのは、おそらく冒頭で触れた自宅のダイニングテーブルだったのではないだろうか。
『まほうをかけられた舌』は翌1971年に岩崎書店より出版。前後して、『北風のわすれたハンカチ』が旺文社より出版された。翌1972年には、早くも初の童話集となる『風と木の歌』(実業之日本社)が出版される。この本は翌年の第22回小学館文学賞にかがやき、童話作家としての名を上げてゆく。この年、安房直子30歳。以後、他界するまでの20年にわたり、読者の心にやさしく届く、数々の作品が生み出されていった。
「小夜にはお母さんがありません。・・・」と始まるものがたりは、安房直子最晩年に書かれた作『花豆の煮えるまで―小夜の物語』。病床にあった安房が、生後すぐ実母と別れ暮らすことになった彼女自身の人生を、主人公の小夜に重ね描いたのだろうか。目の前の貴重な資料や書籍〈花豆文庫〉を図書館に寄贈した、安房生前の友人たちを中心とする「花豆の会」(現在は「安房直子記念〜ライラック通りの会」)の方々の考察も、同じところにあるようだが、それに対する安房自身の言葉は、この資料のなかには残されていない。

安房直子という人が知りたくて訪れた図書館。〈花豆文庫〉を見通したのは、わずかな時間ではあったが、「ものがたりを書く」ということを貫き通した彼女の生涯が凝縮されている次の言葉を紹介して、締めくくることにしたい。同人誌「海賊」創刊号、「マスト」と題された編集後記に安房の決意が示されている。
「童話が私のライフワークでありたいと願いはじめてから数年になる。子供の頃に魅了された様々の物語の今度は作り手になる事、それは思ってみただけでも心の踊る仕事である。そのために、今私が一番ほしいのは、日々のどんなに平凡な生活の中からも、童話の素材を見つけ出して、それを香り高いファンタジーにふくらませる力である。今までの緩慢な創作態度を反省しながら、これからは私の生活の悉くが「童話のため」でありたいと願っている。」

(土居 麦/こんにゃく座制作)