作曲 萩京子に聞く/鄭義信さんのこと
2017-08-18

「私と鄭さんとの出会いは、黒テントに鄭さんが在籍していた時でした」

まず、こんにゃく座と「劇団黒テント(※1)」の関係を最初に説明したほうがいいと思うんですけど、こんにゃく座は黒テントと古くから関係があって、それは林光さんが、黒テントが出来る前の「自由劇場」の時代、1960年代頃から、演出家の佐藤信さんや山元清多さんの作品の芝居に歌を書くということをやっていたからなんです。そのこともあって、こんにゃく座では、黒テントの芝居で歌われたソングをよく歌ったりしていました。
黒テントの演出家にこんにゃく座が演出をしてもらったのは、1983年に『あべこぶらツウィスト』(萩京子作曲)の時の加藤直さんが一番始めになったんだけど、それよりも前から、こんにゃく座にとって黒テントはとても近い存在でした。

萩さんと黒テントの出会い

黒テントに「赤い教室」というのがあって、私もソングの講師として行ったことがあります。この教室は、演劇をやりたい人のための教室というか研修所的なもので、この教室を終えた人が黒テントに入る、というようなところでした。
この教室のほかに、林光さんの提案だと思いますが「オペラの教室」というのも黒テントで始めて、終了公演のために、宮澤賢治の「饑餓陣営」を光さんが作曲したりもしていました。大石さん(大石哲史)なんかは、生徒として「オペラの教室」にも通い、そのずいぶん後になってからは、「赤い教室」から名前を変えた黒テントの「俳優基礎学校」でソングを教える立場になったり。(そこに参加していた、佐藤敏之富山直人をこんにゃく座に引っぱって来たんです!)
こんにゃく座は、創立した最初のころはずっと学校公演を中心にやっていたので、劇団としての制作体制というか、東京での一般公演をするためのノウハウをあまり持っていなくて、黒テントにずいぶんいろんなことを教えてもらいました。報道関係にはこういったものを送るんだ、とか、チラシはこういうお店に置いてもらって、とか、結構一から十まで教えてもらいましたね。
そういうこんにゃく座と黒テントの関係がある中で、黒テントに役者として入ってきた鄭さんと出会うことになるわけです。

「八月の劇場」の8.15 敗戦コンサート



萩さんと鄭さんが出会ったちょうどその頃、黒テント時代の鄭さん。1984年8月 福島県飯舘村 (c)N.TANOUE
1982年から5年間、黒テントが「八月の劇場」といって俳優座劇場で公演をしていました。8月に1ヶ月間芝居の公演をするのですが、その公演期間中、8月15日は「8.15敗戦コンサート」と題したコンサートをやっていました。そこで「日本国憲法」を歌ったり、こんにゃく座も有志が出演したりしていて、その何年目かに、クルト・ワイル作曲、ベルトルト・ブレヒト作の「マハゴニー市の興亡」をやることになって、私はピアニストとして一緒に出演することになりました。でも、この作品は声楽的に音域も広くて、これが結構大変なわけです。一応高い声が出る人がテノール、高い声が出ない人がバリトンと分けられている中で、高い声が出るっていうテノール軍団に「ウヮー、ギャー」って声で歌っている人がいて、それが鄭さん。印象的な出会いでした(笑)。

最初に、一緒にやることが実現しそうになったのは、黒テントで、若手の作家志望の人に脚本を書かせよう、演出をさせようという企画があって、その企画の中に、鄭さんの作品がありました。これを上演するので「萩さん曲を書いてくれませんか」、という話になったのだけど、演出することになった恵川智美さん(こんにゃく座ではオペラ『銀のロバ』演出)の“おめでた”がその後わかって、企画が一回無くなってしまいました。その後、鄭さんは脚本を書き直していって、鄭さんが自分で演出をするということで新しく仕切り直されて上演することになったのですが、その時には当初の、私が曲を書くという話は消えてしまいました。
当時は、私もこんにゃく座で少しずつオペラを書きはじめていたけれど、もっとオペラを作りたい、一方鄭さんは劇作をしたい、という時期で、いつか一緒にやりたいね、みたいなことはよく話していました。

1985年のこんにゃく座集合写真。何故か、わざと悪ぶった顔で撮った。左から、梅村博美、古里秀一(制作)、小川紀子、大石哲史、竹田恵子、鈴木啓、萩京子、川鍋節雄。1985年こんにゃく座駒沢稽古場

鄭さんにオペラ台本を書いてもらいたいと思ったのは

その後鄭さんは黒テントを辞めて、それで在日の演劇人たちが中心となって鄭さんの「明日、ジェルソミーナと」という作品を上演することになりました。その公演に音楽で私が関わったのが、本格的に一緒にやるはじめての機会でした。それは大きい強烈な出会いになりました。
それから鄭さんは、劇団「新宿梁山泊(※2)」の旗揚げメンバーになって、脚本を書いたり出演もしたり忙しくしていて、私もいくつか梁山泊の芝居に曲を書くこともあったけれど、しばらくは、梁山泊を観に行くという関係が続いていました。
それでもいつか、という思いはずっと持っていました。そもそも、鄭さんにオペラ台本を書いてもらいたいと思ったのは、鄭さんは詩を書ける人であるということです。私は元来、散文でもオペラは作曲できるぞって思っているんですが、やっぱりちょっとした言葉の純度みたいなもの、詩があると、オペラとして音楽として、そういうところにポイントをおくことができます。鄭さんの言葉が詩的である、というところが大きいですね。それと全体の構築力。鄭さんはこのふたつを兼ねそなえているんです。

オペラ『スマイル─いつの日か、ひまわりのように』の誕生


オペラ『スマイル─いつの日か、ひまわりのように』楽譜
鄭さんが梁山泊を辞めたと聞いて、少し時間ができたんじゃないかな、と思って、そんな時、名古屋のオペラグループ「うた座(※3)」の台本をお願いすることになりました。
うた座で1996年に北村想さんの戯曲「想稿・銀河鉄道の夜」を元にしたオペラ『ジョバンニとカムパネルラ』を私が作曲して公演しました(この作品は、後に、オペラ『想稿・銀河鉄道の夜』となり2010年2017年にこんにゃく座も公演した)。それでその次の年にも新作がやりたい! とうた座が燃え上がっていて、相談された私もどうしたらいいかなと考えていた時に、そうだ、鄭さんは新宿梁山泊を辞めてどうしているかな、ひょっとしたら台本を書いてもらえるかな、と思って連絡をしてみたら、書きますよ、とすんなり。
内容やストーリーはお任せということだったんですが、当時の鄭さんは、崔さん(崔洋一さん。映画監督)と事務所を作ったりして、映画の仕事とかがすこしずつ発展している時期でした。それで引き受けてくれたは良いけど、待てど暮らせど台本が来ない! 手がかりも何もないまま、公演日はどんどん迫ってくる。さすがの萩京子もいよいよこれはまずい、ということになって、留守電やらFAXやらをしたら、「もう少しお待ちください」と返事がきて、これは書く気なんだな、お手上げではないんだ、と思って(笑)。
それでもう本当にぎりぎりの段階で台本がやってきました。これはとにかく、これからずっと寝ないで書いても間に合わない、と思うような状況だったので、その時、窓子(萩京子の妹さん)が手があいている時期だったから、24時間体制で側にいてもらって、作曲するさきからどんどん楽譜の清書をしてもらいました。だから『スマイル』の楽譜は半分くらい窓子の字なんです。
仕上がったそばから名古屋にFAXで送って、それでなんとか初日の5日前くらいに、最後のところができたんだったかな。それでなんとか初日にこぎつけた、ということでした。オペラ台本作家、オペラ作曲家としてはたいへん壮絶な出会いでした。

結果的に台本も作曲も急いでやることになったけれど、いま改めて思うと、『スマイル』には、鄭さんのその後の作品のエッセンスみたいなものが全部入っていて、ひとつの新しい出発地点となる脚本だったんだな、と思います。


こんにゃく座鄭作品第一作目『ロはロボットのロ』新演出稽古場より。
2015年4月こんにゃく座Bスタジオ 撮影:姫田蘭


※1 劇団黒テント=1968年に「自由劇場」「六月劇場」「発見の会」の三劇団の連合組織である「演劇センター68」として発足。1970年に大型の移動式テント劇場を創設し、全国移動公演の旅を開始。以後20数年間にわたって日本全国移動公演を行う。1990年に「黒テント」と改称。2005年より神楽坂に本拠地を移し、年間3〜6本の芝居を上演している。(黒テントHPより)【戻る↑】

※2 新宿梁山泊=1987年に結成、今年創立30周年を迎える。主に鄭義信、唐十郎の戯曲を上演し、海外公演も積極的に行っている。【戻る↑】

※3 うた座=1989年に名古屋で結成された、日本語のオペラを上演するオペラグループ。萩京子の作品を中心に上演。大石哲史が、歌唱指導、演出で関わっている。現在は、「座うたざ」と名称を変更している。【戻る↑】