宮澤賢治年譜

  • 1896(明治29)年
  • 8月27日、岩手県稗貫郡里川口村川口町(現・岩手県花巻市豊沢町)に宮澤家(質・古着商)の跡取り息子として誕生。父は謹厳実直、一家そろって熱心な浄土真宗信徒であり、幼少時には叔母の経文を子守唄がわりに聞くなど、仏教的素地が形成される。

  • 1906(明治39)年
  • 10歳。父の運営する仏教講習会に参加。礼儀正しくおとなしい少年で、鉱物・植物・昆虫採集の標本づくりに熱中。翌年も夏季仏教講習会に参加。鉱物採集ますますはげしく、家族から「石コ賢さん」と呼ばれる。

  • 1909(明治42)年
  • 13歳。県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)入学、謹厳な父の元を離れた寄宿舎生活で大きな開放感を得る。登山や鉱物・植物採集に没頭。

  • 1911(明治44)年
  • 15歳。この頃より短歌の創作を開始。奇行がめだち、級友から「変人」と綽名された。席次は135名中48番。操行は丙。よく教師に反発した。

  • 1913(大正2年)
  • 17歳。舎監排撃騒動に加わり退寮(排撃の理由は不明)。他所に下宿。9月、報恩寺の尾崎文英について参禅、頭をまるめて登校し、級友たちを驚かせる。

  • 1914(大正3)年
  • 18歳。盛岡中学卒業。鼻炎の手術。入院中、同年の看護婦に恋をし、結婚したいと父に話すが、若すぎると戒められる。家業とそれを継がねばならないことの嫌悪、進学の念も強くノイローゼ状態。見かねた父は進学を許す。島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』を読んで強い感動を受け、生涯の信仰となった。

  • 1916(大正5)年
  • 20歳。盛岡高等農林学校農学科(現・岩手大学農学部)第二部に首席入学、寄宿舎生活。関豊太郎教授と出会い、一転、熱心な学生となる。また信仰が激化、学校でも合間に経文を唱え、周囲のものはあっけにとられた。二・三年時には特待生となり、授業料免除。8月に上京しドイツ語講習会を受講。また博物館、植物園、オペラ、映画館をまわる。11月「交友会々報」に初めて短歌、短編を発表。翌年7月、同人雑誌「アザリア」第一号(48頁、ガリ版刷)創刊。短歌、短編を発表。同誌は1918年、第六号で終刊。8月から9月、江差郡地質調査。

  • 1918(大正7)年
  • 22歳。徴兵検査、第二乙種兵役免除。3月、盛岡高等農林学校卒業。卒業後の進路について父と対立。結局研究生として残る。6月、岩手病院で肋膜炎の診断。8月、初めての童話「蜘蛛となめくぢと狸」「双子の星」を弟妹に読み聞かせる。童話創作開始。12月、妹トシ入院の知らせに母と共に上京、看病に当たる。翌年1月、母が帰花し、一人でトシの世話。病状を逐一父へ報告。また、東京で仕事を始めたいとの提案をするが拒否される。3月、トシ退院とともに帰花する。家業の店番をし、鬱々とした日々を過ごす。農蚕講習所の講師となり教壇に立つ。

  • 1920(大正9)年
  • 24歳。引き続き店番。5月、盛岡高等農林研究生を修了。助教授になる話もあったが、辞退。法華経に改宗、国柱会(日蓮主義の在家仏教教団)に入会。浄土真宗重鎮の父は息子と連夜争論、一家中真っ暗となる。

  • 1921(大正10)年
  • 25歳。1月、自立をめざして突如家出を決行(店番中、偶然棚から落ちてきた日蓮遺文集等が背を打ったのを啓示と考えたらしい)、夜行列車で上京。父の知人宅に仮泊の後、本郷に下宿。ガリ切りアルバイト、国柱会活動、爆発的な童話書きに没頭。父は息子を心配し、経済的心理的懐柔作戦をとるが賢治は帰花せず。だが、8月にトシ病気の知らせに、大トランクに原稿をつめ帰花。12月、雑誌に童話を発表。生前得た唯一の原稿料5円をもらう。また?貫農学校(花巻農学校、現・花巻農業高等学校)教諭となり、のびのびとした教員生活を送るが、農村の実態に、教員に留まることに疑問を抱くことになる。

  • 1922(大正11)年
  • 26歳。「春と修羅」の巻頭をはじめ、続々と詩作。6月、劇「饑餓陣営」を書き、9月に農学校で上演。11月、最愛の妹トシ死亡、賢治は押入に首を突っ込んで慟哭。葬儀には宗旨がちがうとの理由で出席せず。嘆く父と争って遺骨を二つにわけ、自分の部屋の国柱会授与曼荼羅の前に安置。

  • 1923(大正12)年
  • 27歳。1月、東京に下宿中の弟、清六をたずね、大トランクにつめこんだ原稿を出版社に売り込みに行かせるが、出版を断られる。

  • 1924(大正13)年
  • 28歳。4月、「春と修羅」一千部を自費出版。殆ど売れず。中原中也、高く評価。7月、辻潤〔読売新聞〕紙上で、12月、佐藤惣之助〔日本詩人〕誌上で絶賛。8月、農学校講堂で自作の劇四編を上演。9月、文部省令により学校演劇禁止。12月、『注文の多い料理店』を東京光源社より刊行。初版千部の印税として百部をもらい、注文がない出版社の窮状に、父から借金をして二百部を買い取る。

  • 1925(大正14)年
  • 29歳。1月、「赤い鳥」に「注文の多い料理店」の1頁広告出る。農学校の教え子に「教師をやめて百姓になる」と書き送る。一貫して高い評価を与えている草野心平との交渉がはじまる。「貌」、「銅鑼」の同人となる。

  • 1926(大正15・昭和元)年
  • 30歳。3月、花巻農学校を依願退職、無収入となる。4月、宮澤家別荘で独居農耕自炊生活。この頃より羅須地人協会活動開始。音楽・芸術活動や農業指導等に奔走。草野心平、〈詩神〉誌上で賢治を激賞。11月、同協会講義。12月、セロを持って上京、セロ、タイプライター、オルガン、エスペラント語を学び、芝居や歌舞伎座に通う。

  • 1927(昭和2)年
  • 31歳。1月、羅須地人協会講義。その後社会主義運動との関係を疑われ、集会は不定期。稲作指導、肥料設計に奔走、7月には天候不順の対策を講じてまわる。この頃小学校教員、高瀬露との恋仲がうわさになった。

  • 1928(昭和3)年
  • 32歳。6月、水産物調査、浮世絵鑑賞、伊豆大島行きの目的で上京。7月、干ばつと稲の病気の予防と駆除対策に村々を奔走し披露困憊。8月発熱。両側肺浸潤の診断を受け病臥、12月には急性肺炎で再び病臥。実質的に羅須地人協会の活動は停止。

  • 1931(昭和6)年
  • 35歳。病気が一時的に回復。2月、(父のビジネスマンへの転職の思惑もあり)、合成肥料調製について相談を受けていた東北砕石工場の技師となるが、仕事は多方面にわたり東奔西走。給料年600円(石灰岩抹の現物支給)。草野心平「宮澤賢治論」が〔詩神〕に載る。9月、仕事を兼ねて「風の又三郎」の取材のため、遠野上郷村の教え子を訪問。9月末、工場の要請で宣伝販売のため上京。到着御発熱、病臥。死の危険を感じて遺書を書き、父に電話連絡。父の手配で夜行寝台で帰花、病床につく。11月、「雨ニモマケズ」を手帳に書いたと思われる。

  • 1932(昭和7)年
  • 36歳。一年をほぼ病床で過ごす。病をおして農民の肥料相談に応じる。6月、岩手日報学芸欄に母木光「病める修羅/宮澤賢治を訪ねて」掲載。児童文学、女性岩手、詩人時代などに童話や詩を死の直前まで発表。

  • 1933(昭和8)年
  • 37歳。1月、小康。農民の肥料設計にも応じる。9月21日、午前11時半容態急変。父に、法華経を印刷、配布してほしいと遺言を伝え、午後1時永眠。枕元の大量の童話や詩の原稿について、父には「迷いの跡」と言い、生まれてはじめてほめられ、母には宗教的信念として述べ、弟清六には出版の望みを託した。23日安浄寺(浄土真宗大谷派)で葬儀。昭和27年身照寺(日蓮宗)に改葬。