安房直子という人〜前編
2017-02-27

西武新宿線に乗り、新宿から急行で20分。田無(たなし)駅から3分ほど歩くと、西東京市の中央図書館に着く。「安房直子」という人物についての資料がこの図書館の2階にある「地域・行政資料室」に収められていることを知り、訪れることにした。
児童文学作家・安房直子(あわなおこ)。1943年東京生まれ。1970年『さんしょっ子』で日本児童文学者協会新人賞を受け、以降1993年に若くして肺炎により他界するまで、数多くの童話を書いてきた作家。『まほうをかけられた舌』の原作者・・・。

小さい頃は読書が好きで、小学校の図書室にある本は区別なく何でも読んでいたと自負するところはあるが、安房直子さんの名前に記憶がなかった。代表作の一つ『きつねの窓』などは小学校の教科書にも長く採り上げられ、きっとどこかで読んでいるに違いないのだが、多作であった安房さんの童話のタイトルをインターネットで閲覧しても、どんなおはなしだったろうか、内容に思い当たらなかった。
資料室にどういった資料が収められているのか、訪れて初めて目にするわけだが、司書の方に案内されていった先には、出版されたかなりの冊数の書籍、そしてそれとは別に、段ボール箱にまとめられた資料があった。まずはものがたりの内容に心当たりがないか、書籍に手を伸ばす。本のページをめくるたびに、このおはなしはきっといつか読んだはず・・・と思い起こさせるところがぼんやりとある。どのおはなしにも共通する、色彩ゆたかでやわらかく、そして同時にちょっぴりと寂しさの混じった、控えめともいえるイメージがふんわりと記憶を広げていった。

安房直子(以下敬称略)は1943年1月5日、東京・新宿に生まれた。四人姉妹の四番目、彼女が生を受ける前から母親とその妹(直子からは叔母にあたる)とのあいだの、もし次に女の子が産まれたなら妹の家に養女に出すという約束により、彼女は幼くして実の母親のもとを離れ、暮らすことになる。ほどなく養父の仕事の都合で、各地を転々としながらの少女期が始まってゆく。彼女の移っていった先を、高松、高崎、仙台、函館、上田と追うなかで、仙台の片平丁小学校を卒業した当時の卒業写真を、資料のなかに見つけることができた。聞き覚えのある学校名、こんにゃく座が2014年に『銀のロバ』の公演をした学校だということに気づく。
転校を繰り返す環境は、仲のよい友達を作るにはなかなか難しさがあったようで、代わりに、彼女は次第に本を読むことが好きになっていった。
「童話を書く上で、私の一番大きな影響を受けたのは子供の頃の読書でした。・・・それで、自分もまねをして、おさないお話を書いてさし絵をつけたりして、大人になったらきっと、お話をつくる人になりたいと思っていました。」(「童話とわたし」日本女子大学 国語国文学会だより3号・1990年)と本人が振り返っているように、すこしず つ童話作家になる素地が築かれていったようである。ちなみに彼女が好きだったのはグリムやアンデルセン。特にグリム童話は大好きだったそうだ。
各地を移り住む生活は中学で終わり、高校入学に際し、生前から安房家に縁のある東京・市ヶ谷に戻り、生活を始めるようになる。高校は日本女子大学附属高校。こんにゃく座からほど近い、川崎市多摩区西生田に今もある学校に、3年間通っていた。高校では文芸部に所属し、部誌「生田文芸」に、創作した詩や童話を発表するようになったらしいが、それらはこの資料の中にあるのだろうか・・・ざっと眺めたところは見あたらない。
高校時代、彼女は2歳上の実の姉、紘子さんと(従姉妹として)一緒に過ごす時間を増やしていった。(彼女たちが実の姉妹であることを知るのはまだ少し先。安房が大学を卒業する直前の頃であったろうと、資料(「日月」第八号・日本女子大学児童学科児童文学研究会(日月会)・2011年)には残っている。)彼女たちはキリスト教に興味を深め、家から近い市ヶ谷のカトリック教会に通ったり、公教要理(カトリックの教義書)を読んだりという時間を共にしていたようである。洗礼を受けたいと両親へ思い切って切り出すも、父親から反対を受け、この希望は叶わなかったのであるが、そうした葛藤も含め、彼女の思想がこの時期に大きく広がりをみせたであろうとの想像は容易につく。
高校時代に深めていった興味を、彼女は大学(日本女子大学)に進んでからも継続し、実践につなげている。文学部国文学科に属し勉学に励むかたわら、部長を務めるまでになった聖書研究会のほか、短歌研究会や児童文学研究会にも所属し、創作の灯を点しつづけるその火種を、勢いよく焚きつけていった時期との印象を持つ。

大学時代に彼女がもっとも影響を受けたと言って過言でないのは、山室静(やまむろしずか)氏であろう。安房が通った日本女子大学で教鞭をとっていた山室静(以下敬称略)は、詩人、文芸評論家、翻訳家の顔を持つ。身近に感じるところでは、ムーミンの翻訳を手がけたという仕事が挙げられる。
安房直子と山室との出会いは、山室の立ち上げた大学研究誌「目白児童文学」に安房が自作を寄せたことに始まる。創刊号に『月夜のオルガン』を掲載。そして児童文学講義のレポート代わりに提出した『空色のゆりいす』に山室が目をとめたことから、密に指導を受ける関係へと進んでゆく。
先に引用した「童話とわたし」というエッセイのなかで、安房は、「合評会の席で、山室先生が、『こんな作品が十ぐらい書けたら、一冊の童話集を出すといいね』とおっしゃいまして、この時に、ああ、もしかしたら、私も、自分の本を出す事ができるかもしれないと、それは、なにか、だんだん目の前が明るくなってゆくような、夜が明けてゆくようなよろこびでした。」と書いている。
山室への師事は、安房が大学を卒業してからも続く。大学院の児童文学講座を受講し、山室が専門としていた北欧神話やギリシャ神話、またイソップ、アンデルセン、そして大好きだったグリムに対する造詣を深めていくと同時に、「メルヘン童話こそ、世界の最も深い意味、普遍的真実を、平易な眼に見える姿、具象として書いたもの」との山室の教えに追随するかたちで、「目白児童文学」に童話を発表し続けていく。
しかし安房の創作意欲は、一年に一回しか発行されない「目白児童文学」誌のペースを追い越してしまうことになる。自らが5人の発起人のうちの一人となり、10人ほどの仲間を集め、年4回の発行をめざす同人誌「海賊」を創刊。この時、1966年10月。『まほうをかけられた舌』の作品誕生まで、もう間もなくである。

(土居 麦/こんにゃく座制作)